反応としての善行

 雑談。修論が返却された。それなりに手ごたえのある修正案もといアドバイス。コレ直せばノルマクリア…って思うとかなり気は楽だが、果たしてこういうスタイルで社会に出てから通用するのか?と心配。社会人って完成度の低い資料を上司に提出しないでしょ。人を使った推敲をガツガツしているイメージもないし、全部自分で作り上げたうえで初めて上司に見せるもんなんじゃないの。そう考えると結構甘えてんなとは思う。来年度からの修行は覚悟しないとな。

 とは言え、何はともあれ修論の進捗が「コレ直したらOK」のラインまで引き下がったのはでかい。加工は創造よりもずっとコストが低いからね。それは多分どんな創作肌の人でも同じ気がする。うん、学校という前輪は駆動してる。人間関係の後輪は空転してる。それでもたまに人と会話したり昔の知り合いに電話付き合って貰ったりするのが助けになってるんだけど。うん、今日はそういう話じゃないのでここまで。

 

 

 

 本題。最近俺は周囲と距離を取り直して調整しているのだが、言い換えて見ればこれは人間関係のリセットだ。単純に全て取り払って問題を解決しようとしてるというだけの行動。この行動が正着なのかどうか俺にはまだわからないが、どっちにしたって不安があった。今の自分は人間的に成長できているのかと。昔から相性のいい人間や特別な環境で仲良くなった人達に甘えてるだけなんじゃないかって。相性がそんなに良くない人達や距離が埋まらない環境の方が多いのに、そういう環境に背中を向けていいのかと苦悩していた(自分で苦悩なんて言うとかなりカッコつけてる感じがしてクサイな)。だから、俺は今成長してないのではと。  

 

 それならどうやって成長するのか。やはり人間関係しかない。社会に出たら会社はともかく他のコミュニティにも属して成長せねば(オッサンの考え凝り固まりがちなのってコミュニティが固定だからっての結構あると思う)。んで、どんなのがいいの?

 

 昔知り合いから言われた一言が浮かぶ。

「お前はマチアプとかよりボランティアでもして陽に当てられた方がいいよ。暖かい人間関係に身を置いて人間不信治しな」 

 原文ママじゃないけど大体こんな感じ。俺は初めて貰う類の助言に感謝しかなかったが、その時は不遜なことに「ボランティア団体も陰湿かもしれないだろ」なんて返してた。

 ただ、自分を癒すための人間関係ではなく成長するための人間関係となれば、ボランティアというのも案外的外れではないのではないか。今日の俺はそう思った。なぜか。ボランティアとは善行であり、やる側に具現化された実利は発生しない。特定の善行に対して何かしらのメリットを感じないのなら完全にやり損なのだ(もちろんお金が貰えたり仲良くなれたり善人カウンターが溜まったりと、細かく見ればメリットはあるのだが)。加えて、ボランティアをするような人間は偏見だけど一癖ありそう。なんというか偽善臭いというかエゴイストというか、俺自身の性格が終わってるので防御反応でそういうネガティブイメージを抱いてしまう。 若干の苦行、そして一癖ある人達と関わることで成長できるのではという試みだ。 

 

 

 てことで、俺にモチベーションのあるボランティアと言えばガキ系ぐらいなものなので児童養護施設のHPへ飛ぶ。門前払い。ああいう施設の人って「人手不足~!!」って言うけど、ボランティアとかいう流動的な人材じゃなくて正社員が欲しいみたいだね。少し考えたらわかることなんだけど、孤児相手の仕事なんて重大な責任とセットだしそりゃそうか。ということでボランティア作戦は幕を閉じた。だから、俺が世間のお子様に大迷惑を...ってニュースに登場することはなくなった。平和は保たれた。児童養護施設の繁栄自体は平和じゃないかもだけど。 

 というか俺にそもそもガキやオバサン達からの需要ないし。サービス業は女の仕事でしょ。差別って言われるかもだけど、俺みたいなエゴイスト男が相手するより子煩悩な女の人が相手した方が絶対にガキも安心する。オバサンも自分らのコミュに男が入るの好きじゃないし。これぞ生理的無理。ちょっと古臭さ感じる女子言葉。まだ現役なんかな。

 

 

 さて、俺がボランティアの門前払いを食らったのと適性がないという話はともかく、今回俺がボランティアという偽善行を企んだかって話をしよう。やっと超本題。

 

 一つは上記した人間的な成長。実はそれだけじゃない。

 イデオロギー。そう書けばカッコよく聞こえるかもしれない。が、実際はエゴ。環境に恵まれなかった(と思ってる)俺が、負の再循環を止めるために少しでも児童養護施設を良くできればって考え。もちろん自分が満足する生活と天秤にかけるから、マザーテレサのような献身性はない。社会人になったらお金がある程度余るのではという甘すぎる考えから来てる。多分現代日本はそんなにヤワじゃない。

 追加で俺のエゴを補足するとすると、俺みたいに育ちが悪いまま育成されるぐらいなら、安価で親代わりに育ててくれる施設がある方がよくね? なんて甘い考えも要素の一つだ。ガキが虐待死してるニュース見ると毎回思う。実際、虐待家庭にいた俺の所感としてそんなに簡単な問題ではない。親権や金銭の問題もあるが、心理的な問題が大きいのだ。お金がないからと言って簡単に子供を手放す親なんて実はそんなにいやしない。ボコスカ虐待してる親でも実はスパッと手放せなかったりする。うっすらとした愛情というか依存心を持たれていたことは子供ながらに読み取れた。どんな子供でも自分の機嫌がいい時に見ればかわいいものだ。機嫌が悪いときに殴る用の犬、保健所に入れられますか? 殆どの人ができないと思う。犬でそうなんだから、子供なら猶更。面倒なことに親は子供に依存する。施設に安易に預けられる程人間の情は退化していないんだよね。まあそりゃそうか、自分の人生の証でもある訳だしね。 

 

 ごめん、この手の話題になるとつい感情的になって筆が乗ってしまう。この項で言いたかったのは、俺をボランティアに駆り立てたのは「世の中かくあるべき」というエゴイズムだ。口ではこんな簡単にエゴを喋れてしまうのが怖いね。手を動かすとなると辛さの前に屈しちゃうのに。

 

 

 実はもう一つ動機がある。簡潔に言うと、正当化だ。いいことして自分の中のつり合いと取ろうというムーブ。不倫中の妻が夫に奮ってサービスするのと同じ。俺が何か背徳的なことをしてるかって言うと…主にこのブログだろう。こんな終わってる人間性を持ちながら「これでもコイツいいトコあるんすよ」って自分で言えるようにするためには、ボランティアなんていうあからさまな善行を積むしかない。善悪の主観的バランスね。 バランスと言えば、先程のイデオロギーの項もエゴと行動のつり合いとして見られる。上記の通り俺はエゴだけはいっちょ前にある。あまりにも大口をたたいているだけだと、人間おかしくなってしまうものだ。壮大な自尊心で自滅してしまうあの作品の如く。 だから、俺は防御反応として何かしら手を動かしたくなっただけ。 下手にごちゃごちゃ考えるから自縄自縛されてしまうんよね。ほんとばか。

 

 

 

 長くなったけど、要は俺は完全に自分のために善行を積もうとしてたって話。エゴと体が付き合っていくためでもある。完全な偽善だね。別に俺は善が良くて偽善が良くないなんて思わないけど、偽善アレルギーの人用に一応言っておいた。俺個人の考えでは、世の中の人間はみんな自己中心で各々の損得勘定で動いてるんだから、発生する善が全て偽善の方が腑に落ちる。自分のために行う善が偽善って解釈ならそう。

 

 別に善になろうとは思ってないけど、善行って難しいね。もし俺が良いことをしていたら99%偽善だから、よく観察してみてくれい。以上。終わり。