パンチドランカー

 前回の記事、少し雑だったかもね。手っ取り早く承認される能力がなくて、それでも承認されたい人間が面白さに縋るってこと。承認欲求モンスターというかアイデンティティモンスターなんだよな俺って。自分が特別だとか生きてきた証を遺したいとかナチュラルに考えちゃってる。周りの同級生たちはとっくに人生を自動化させているというのに。…こんな言い方をしているあたり、とことん俺は周りの人間を見下していると思う。

 

 

 ちょっと本題に入りかけたかな。

 ずっと前から意識していたことがある。自分のスタイルについて。

 端的に言えば、俺は負けたがっている。

 負けたい、辛い思いをしたい、挫折したい、弱者でありたい、その姿を美しいと思っている。きっとそんなところだ。

 なんというか、もっと器用に生きる方法を俺は知っている気がする。というか、俺自身は最低限の幸福を得られるように器用に生きちゃっている。

 それなりの大学に進学して、学部学科研究室も厳しすぎず就職先の良いところにして、会社でも最低限マトモに働いて、それなりの生活を確保しちゃっている。

 その上で冒険だか挑戦だか馬鹿な事だかして、不幸なふるまいをしている。

 本当に無鉄砲で不器用な人間ならもっと滅茶苦茶な経歴だったり行く先々で本当に苦労しているはず。俺はちゃっかり器用に生きてしまっているのだ。それなのに不器用に生きようとしている。

 

 なぜこのような人生を送っているのだろうか俺は。

 多分、勝ちたくないから。今まで自分を負かしてきた存在になりたくないから。勝てば反骨は終わる。のっぺらとした幸せな日々が続いてつまらない人間になっていく。そんな人間をたくさん見てきた。勝って満たされてモラトリアムの旅が終わることも、目の前の小さな幸せに妥協してしまうのも許せない、そんな強欲な人間が俺だ。

 

 負ける痛みには慣れていた。そして、今までの環境は常に自分を虐げる存在にあふれていた。暴力に耐えて努力して成長する、そんなスタイルに慣れてしまっていたから、今でも自然と痛みを求めてしまうのかもしれない。これが今回のサブタイトルの由来。

 

 作家は不幸でなくてはならない。誰が言い出したかもわからないそんな言葉にまだ俺は縛られている。

 

 青い鳥がいればいいんだけど。というか、結局どうなりてえんだよこの人生。痛くて気持ちのいい人生を送りたいだけなのか、ルサンチマン燃やす思想を完成させたいのか、それを認められたいのか、ただ悩みたいだけなのか。このままじゃただ手頃な痛みを無理やり探して終わりだぜ。

 

 とりあえず具体的な方向性を一つ示しておこう。、、、今書いている作品を完成させる。書いていく中で思想が開けてくるかもしれないしね。