属性バトルとポケモンのサイズ 

 押忍。ただいま修論の修正に勤しんでおります。精神はいたって健常なのですが、体力的な限界の足音が聞こえてきます。サボる時間でもこうやって画面を見てイスに座ってるわけだから、目がパキパキ脳がヘロヘロ腰がガチガチになるに決まってるんだよなあ。後でラジオ体操でもしよかな。

 

 

 本題。今日は目線の高さについて話したい。まずは関係なさそうな導入から。

 最近属性カードバトルなるものが流行っている。育ちの良さや現在の暮らしの豊かさを競う幸福バトル、そして出自の悪さを競う不幸バトル。前者においてはもう神々の戦いだから俺の視野にはあまり入らない。というか実はバトル自体はそんな発生してなくて貧乏人の僻みを吹っ掛けられてるって言い方の方が正しいかもしれない。その時にも「自分はこんなに不幸な出自なのに」というカードを使って張り合う手段がしばしば使われている。最近の世の中には「人種」「身体」「頭脳」「環境」といった不幸カードがたくさん発行され、誰でも簡単に使えるようになっている。そして使い方も多種多様。昔はただの不幸自慢にしか使われなかったが、アフリカのガキがカウンターに使われ過ぎて廃れてきた。というか、「ソイツは関係ねえだろ…」って声が浸透してきたんだよな。バトルってのは自分と相手の相対化なんだから他所の国の奴は出てけってこと。こうしてアフガキカウンターを封じられた世間では、様々な戦略が練られ始めた。 言い訳から底上げまで、それこそ「○○なのに大成した」みたいなうたい文句はもうマスコミもお手の物だ。こういうニュースばっかり見て、俺は辟易していた。

 

 

 俺も属性を持つ者であり、「アスペだけど社会に溶け込もうとしてる」とか「育ちが悪いけど育ちを良くしようとしてる」とかの努力はしてる。それでも、欠損している点を人から特別に評価されたいと思わないし、自分で「こんな境遇から頑張ってて偉いでしょ」と押し出す気にもならない。そういう手段に頼らないといけないほど追い詰められていないというのもあるが、色眼鏡で見られたくないのが理由。多分。

 

 

 もう一つ本題に誘導する短いエピソードを。

 俺はポケモンが好きだ。小さくて情けないポケモンが好き。でもそんな自分が嫌いだ。なぜか。弱者を探してるだけだからだ。いいように言えば庇護欲ともいうが、本質的には弱いもの虐めと変わらない。自分より弱い者を上から見下ろして、自分の思い通りに操りたい。そんな心理が見え透くから、俺はポケモンを迂闊に好きにならないように気を付けてている。 

 

 

 2つのエピソードに共通していることは、目線の高さ。障害とか体の大きさとかの生まれ持ったもので、目線の高さが変わらないでいて欲しいんだろうな。目の前の相手と普通に距離を縮めたいのに、色々属性を提示されてしまったら下から「可哀そう」と目線にならざるを得ない。そういった関係に対して酷い潔癖症を持っているというのが、今日の本題。

 

 多分、俺の目線潔癖症は病的だ。だって小さいポケモンが可愛く思えるのは社会一般的に見れば普通だし、ペットを飼うことだって当たり前だ。一体全体どうしてただただ学生をやっているだけの俺がこんなに上下関係に対してピリついているのか。先輩がいなくなって同期がいなくなって後輩が増えたせいで偏った目線に耐え切れなくなったのか。親友どころか友達すらできにくくなってしまった現状に嫌気が差したのか。考えられる原因はこんなところ。うーん、この先が心配だ。同じ目線なんてものがそう簡単に存在するのか? 殆どないと思う。家族ですらみんな俺のことを見下ろしている(末の子供だからそんな深刻ではない)。会社なんて持ってのほかだし。 もし俺が身の回りの人間関係に悉く対等さを求めるのであれば、かなり苦労するんじゃないかな。くれぐれも仕事上では意識しないように!

 

 

 というか、そもそもそんなに対等さって必要なん?って話にも触れておこう。目線が同じだったら素直に喋ってくれるの?と言ったらそうでもないし、こちらの思ったことをなんでも話していい理由にもならない。あくまでも上下関係の気苦労が消えるというだけのメリットだ。対人関係をしていることは変わらないのだから、駆け引きは続く。それでもやはり、「なんでも話しあえて、互いに仲良くなれる関係」とかいうオアシスを目指してるから、対等な関係っていう幻も見るんだよね。 

 じゃあ、対等じゃなかったら何も言えなくなるの?上下関係ってそんなに辛い?という話になる。単純視すれば、違うとおもう。お互いが色眼鏡をなるべく使わないように意識すればOK。遜ったり見下したりしないようにする意識。でも、世の中には上下関係を望む人も多い。役割分担して関係性を単純化するというメリットはあるからね。加えて、「お前みたいな相性良くない奴に対等関係してたらもう縁切ってるわ」ってケースも多いんじゃないかな。本音を話した上で仲良くできる人間って実はすごい少ないと思う。世の中には究極的に仲良くなれない人間ばかりなんだったら、確かに上下関係でお茶を濁すのが正着か。 

 

 

 はい、そろぼち結論がまとまってきたので纏めます。 対等な関係ってのはあくまで究極的に仲良くなるまでの過程で、遜りや見下しを少なくして本音を言いやすくするだけのもの。だから、絶対に必要という訳じゃないし、実際に対等化して本音を言い合って仲良くなれる人間なんて万に1人もいないかもしれない。そういう点で、現実的にみたら対等関係よりも上下関係の方が多いし、後者に順応した方が社会生活上で楽。

 まあ、今回の件は理想と現実が摩擦起こしてノイローゼ気味になっちゃったって話だね。書いていて思ったのは、見下しはしちゃいけないなってこと。他人に対して卑屈にならないよう意識してるのが空回って、普段から見下してそうで怖い。人間なんてのは内部矛盾ばっかりな生き物だけど、自分の作った約束事を破るのが怖いね。 とにかくまずは、主観的な見下しをしないように意識したい。以上。この段落がおまけみたいなものだから、おまけはないです。