理屈ストレート

 雑談。論文の第2稿が終わって提出した。キャッチボールで2投目を終えたが、毎度毎度返って来るボールが鋭くて困るんだよなあ。でも、丁寧にボールを返してくれるだけでとてもありがたい。ちなみに昼夜逆転した。風邪気味なのか頭痛に苛まれた。睡眠って舐めがちだけど体のチューニングだからね。大切にしましょ。

 

 もういっこ雑談。論文がひと段落ついたということでゲームをした。毎度毎度やってるガンダムの対戦ゲーム。野良でオンライン対戦。前よりは少し勝てるようになったけど全体的に見ればまだまだ勝てない。だから、勇気を出して所属しているdiscordサーバーにリプレイを上げてみた。そしたら上級者の方々から次々とコメントが。自分の直した方がいい箇所がボロボロ出てくる。本当に勉強になるし感謝。だけど、一方で「このポイントを自分で見つけられなかったのやばくね?」という懸念もある。ゲームっていう単純化された世界で考慮する箇所が見つからないのは、自分の脳力不足を痛感してしまう。まあここは「ゲームを通して思考力を養う」ということで手を打ちましょう。それにしても思考って場所を絞り込む能力や掘り下げる能力、視点を変える能力が必要だからむずいな。

 

 

 

 

 

 本題。今日は話し合いの話。俺の”いた”コミュニティは共同生活をしているため話し合いを大事にしている。共有部分の使用方法や共益費の使い方など、日常に根ざした問題が絶えないからだ。しかし、話し合いに参加するのは多くても3割程度。これはいつでも変わらない。そして、常套句のごとく「当事者意識が足りない」と話し合い主催者は言う。理屈だけで見ればそのセリフは合ってる。理屈だけで状況が良くならない理由がある。だから状況は改善されない(勝手に善悪を決めつけてるのが気持ち悪い表現になるが)。俺はコミュニティを抜けて距離を置いてみてからそういった全体像が見えてきた気がする。これが今日の本題。

 

 もっと状況を詳しく説明しよう。共同生活をしている6割の人間は話し合いに参加しない。そして3割の人間が「アイツらは自分たちが共同生活をしているという当事者意識が足りないから話し合いに参加しない」と口をそろえて言う。自分の生活に関係することを話し合ってるんだから参加するでしょ?というニュアンスだ。

 

 実はこの論理、そんなに正しくない。実は話し合いで話されることなんて少なく、伝統的な生活基盤に関する話し合い自体は行われていないのだ。要は参加しなくても普通に生活ができる。家賃を払いさえすれば、町内会に参加しなくてもいいってのと同じ。都会的な人が6割。実のところ、話し合いをしなくても生きていけるから参加しない。理屈で見ればそれだけの問題なのだ。故に、幸か不幸かこのアプローチではいつまでたっても話し合いは井戸端会議。

 

 

 

 それでも話し合いの人数を増やしたいと運営側は思う。なぜなら全員参加が一番理想的だから。ワイワイお互い話してさ~って夢物語。それは分かるし、なんなら俺も昔はそちら側だったからね。でも生活基盤という理屈だけじゃ成立しない。じゃあどうするか。情緒的なアプローチだ。もっとみんなの距離が縮まって家族・友達意識のようなものができれば当事者になりうる。逆に、仮に小さな意見こそあっても仲良くない人達だらけの輪に入ろうとは思わないだろう。そういう人達・意見をこぼさないように全体的に仲良くなろうというアプローチを行われていた時期はある。

 

 こういう隣人化政策が効果的かって問題は成果が見えにくいから蔑ろにされがちだ。だが、理屈だけではどん詰まりだからこそ情緒に委ねることが大切だと俺は思う。

 

 いやいや、仲良し企画ならやってまっせ! そんな声が聞こえてくるような気がする。確かに送別会と歓迎会はしている。それはすごい良いこと。でも、他に何かしてるっけ? というか大切なのは日常態度でしょ。

 何度も言っているが、コミュニティなんてのは田舎だ。内向き内向きにベクトルがはたらくから、自然と外部の人間に背中を向けることになる。そして田舎はコミュニティの自然な形態だから、自由にコミュニティを形成していればこうなってしまうのは必然。相性のいい人間同士で集まって、内向きで排他的な輪の完成。実のところ、この輪が話し合い促進勢の正体だ。渦中にいるから客観視しにくい状態。仕方がないと言えば仕方がないのだが。現状で話し合いに参加する外部の人間というと、プライベートの時間を割いてくれる好人間か話し合いマニアしかいない。 これが田舎と理論のどん詰まり。具体的に普段どれだけ排他的なの?って話は割愛。書くとキリがないから。もし一つ言うなら、コミュの人間はコミュ外の人間に基本的に挨拶をしていない。

 

 

 俺は長らくコミュ内にいた。理屈で輪を広げようとしていたこともあったけど、いつからか無理だと悟っていた。そして代表になった時は当時見ていたアニメのセリフを借りて「みんな友達」なんて言って全員と隣人になろうと奔走してたっけ。それもそれで無理して頑張りすぎな気もしたが、方針だけは案外的を射ていたのかもしれない。周りからは「そんな交流でなんか意味あんの?」って疑問視されることが多かったけどね。

 もちろん、相性のいい人達だけで作った内輪が温泉の如くぽかぽかで気持ちのいい場所だってのはわかる。だから、そういった現状を維持したいと考えるのであれば成長しないコミュというのもアリだとは思う。というかみんな本音は田舎保守なんだから何の問題も生じていないと思うんだよなあ。ただ、口先で言ってる理想とは乖離してるねってだけ。

 

 人間は理屈だけで生きていない。というか理屈だけで生きてるんだったら自死を選ぶ人が多いんじゃないかな。どうしても肉体があるし感情がある。だから、人間が絡む問題も理屈だけで解消できることは少ない。むずいけど面白いところでもあるよね。正攻法が案外通じなかったり急がば回れが思った以上に機能したり。俺ももっと器用にルート探索ができるように思考を鍛えなくちゃなと今回の件で思った。頭でっかちはダメダメよ!

 以上、今日は人間は理屈で動いてないよって話でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雑。そもそも理屈ってものが不明瞭なんだよね。今回の俺が提唱した情緒的なアプローチだってコミュの性質だって俯瞰的に見たら理屈だし。感情だってそれを加味して神視点でみれば理屈になってしまう。日常生活上で使う理屈はもっとミクロで確実性があるものだから、俺は文章内で「情緒的」と書いた。その一方で「俺だけ真の理屈で物事見てるよ~」ってカッコつけてるのが実情。他の人と同様に自分の中の理屈(客観性に欠けた理屈って果たして理屈なのかとは思うが)を神棚に祭ってるだけ。こうなってくると理屈という言葉がゲシュタルト崩壊してくるのでもう切り捨てよう。

 理屈感情抜きに語るなら、視野とでも言うか。今回の件で視野の違いを認識することができた。そして、色んな目で見ることがすごい大事だなって思ったね。ちょうど序盤のゲーム話と部分的にかぶるか?  目は2つしかないし脳は1つしかないけど、ズームなりアウトなり想像して視野広げるの大事。うーん、慣れない作業。俯瞰して見てるつもりでも結局それは自分の眼だからね。こういう時のために話せる人、すなわち友達をつくんなきゃね。以上!