続・方言

 雑談。論文を査読してくれる先生に提出して、返却された。「全体的に考察が薄いよ」とのこと。実際の相談内容はもっと事細かだったが、トータルするとこんな感じ。実際は対面で話しているからかもしれないが、もっと丁寧で物腰柔らかだった。嬉しいね。正直内容がイマイチなのもあって、怒られるというか呆れられるというか、そういうネガティブな態度を想定していたから、真摯に見てくれるのはありがたい。…去り行く者相手だから紳士対応なんだよって言うとそこまでかもしれないが、何にしろ自分も仕事人になるのだから先生方みたいな出来の良い人間になりたいと思った。大人を見て大人に感謝して大人になりたいと思った今日でした。

 

 もいっこ雑。この間知り合いと反出生~虚無主義ニヒリズム)についての話をしたのだが、その時に思ったのが俺全然ソース持ってないなってこと。話し相手(提唱側)はどっかのお偉いさんが書いた本を題材に話を進めていたのだが、聞く側の俺の方は特に何の資料もなしに自分の頭ん中だけを頼りにしてたの。んでこれって俺はあんま興味ない話題だったから本読んでなくても問題ないんだけど、俺が普段ココに書いてるようなことについても何一つ勉強してないんだよね。孔子は「思って学ばざるは危うし」って言ってんのにインプットゼロ。確かに偉い本に書いてあるテキストをコピペして持論にするのはカッコ悪い。だけど何にも読まないのも良くないかもね。果たしてウジ虫を強化する本なんてあるのかって話だけど。

 

 

 

 本題。パッと思いついただけだから短いよ。っていうか過去記事「方言という~」の補強。前回がどうしても地方出身者及び関西人叩きになってしまったから、もっと俺の心中にあるモヤモヤを共感できるように言語化して誤解を解きたい。

 

 言葉には力があると思っている。言霊とは違って、話される場に作用する力がどんな言葉にもある。今日俺が先生と話していて思ったのは「力のある言葉を使ってないな」ということ。教科書的で物腰柔らかな言葉遣い、辞書的意味合い以外の印象を与えない言葉。ビジネス言語と比べるともっと砕けてるんだけど、読み合いも目線の上下も限りなく小さい。そういう会話をしていて、俺は「話者によって全然違う印象与えるよな」と言葉の力を再確認した。そして思い出した。方言というパワーワードを。

 

 というか、俺もこないだエセ関西弁使った。適当に話を流すときに「ええやん」とか「すごいやん」とか言ってた。その時に実際は場の支配者となって話を流そうとしてるのに、ちゃんと聞いてる感を出してることに気付いた。言葉の辞書的な意味からは想像もできないパワー。少なくともそのとき使っていた方言に、そういった力を感じた。

 

 よく、言葉に感情を乗せて話す人がいる。というか俺も意識しないとしがちだ。これも言葉の辞書的な意味にパワーを乗せている。代表的な非言語。他に、辞書的意味合いで強い言葉もある。「死ね」とか「殺すぞ」とかがこれ。そして、当の方言は言外の印象を与えるという意味合いで前者に近い。標準語で話してたのに急に「だからぁ、ちゃうって言っとんねん!」なんて言われると辞書では「違います」ってだけなのに、裏側からあり得ない大きさのパワーがあふれてくる。

 

 言語によるコミュニケーションがテキストという2次元的なもの会話から言葉の裏の意味や目に見えない相手の心情、印象操作といった3次元的な会話へ押し上げられる。

本来コミュニケーションというのは3次元である方が自然なのだろう。動物だって選択肢の少ない鳴き声や表情で巧みに意思疎通しているし、語彙の少ない子供はノンバーバルコミュニケーションに頼りっきり。動物の目で見ると、本来の人間は3次元的な会話をする。

 

 しかし、コミュニケーションに確実性が求められるようになってきてからは、辞書という意味が統一された言葉を用いた2次元的な会話も行うようになった。また、俺みたいな他人の気持ちがわからなかったり読み合いが下手くそな人間は3次元会話を疎んで2次元会話を好む。なまじっか2次元会話が発展しているから、そればっかりに頼ろうとしてるってのが現状。

 

 つまり、俺は3次元的な会話が苦手だから方言とかの次元を押し上げる言葉が苦手でーすってだけ。いかにも辞書的意味っぽいコミュ障だな! もし外国行ったら意思疎通できなくて殺されるんじゃね? 

 

 

 

 

 まとめ。俺達はコミュニケーションをとる。口から出る言葉の意味だけで伝わる情報が多いのと同じく、辞書ではわからない言葉の意味や影響も多く、言うなれば表と裏だ。世の中には裏を使ったコミュニケーションを苦手とする人間がいて、そういう人間は裏の意味を持つ言葉に対して苦手意識がある。それだけ。要はやっぱ俺が雑魚いだけで、そういう弱さが抵抗感を作ってるってだけ。今日は以上!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雑おまけ。3次元と2次元のどっちがあるべき姿なんだろうなって話。俺とて3次元コミュの便利さや楽しさを知ってる。でも、誤解を減らすためには2次元の方がいい。そして、生物として2次元コミュを使うことはどうなんだろうって。

 人間は本能とそれに従う感情に支配されて生きてるし、抑制しきって生きることはできない。本当に誰しもが自制しながらビジネス会話をするのは正しい姿なのかと考えると、疑問に思う。もちろん、昔よりかは本能を抑えて生きるようになったんだろう。これが果たして「本当に本能が薄くなったのか」それとも「隠す生き方を覚えたのか」のどちらかがわからない。俺が思うに、多分まだ本能は昔の頃からそんなに増えたり減ったりしていない。ただ、隠す能力が向上しているだけだ。これからもこんな社会が続いて行くなら、多分もうちょっと理性的、2次元的に寄ってくんだろうな。それでも絶対3次元の色は残る。卑猥な言葉を形容する色んな隠語があるように、修辞法がたくさん世の中にあるように、どれだけ理性的になろうが本能は残る。 

 未来のことなんて正味わからんけどね。だれかが「こんなビジネス会話つまらん!」って言いだしたら逆流が起きるかもしれんし。

 

 だから、自然のままに生きるならもちろん3次元。そして本能を完全に捨てきれない限り、広辞苑の言葉のみを使うカードバトルにはなりえない。3次元も極めると動物。2次元はロボット。どっちも正しくないから、俺達はどっちかを選べばいいなんてことはない。本能と理性を折り重ねたハイコンテキストコミュニケーションから逃げるな!俺!