JC時代を思い出すぜ(なったことないけど)

 雑談から。最近「カラマーゾフの兄弟」を読んでる。元々途中まで読んでたんだけど、面倒になって読まなくなってたやつ。ただ、語彙のバリエーションを増やしたくなって取り組み始めた。ボキャブラリが面白さの全てとまでは言わないが、伝えたいイメージを最適なワードで伝えられることが面白さの一要素だとは思う。一番単純な例だと熱いと暑いみたいな。じゃあ辞書でも読んでればいいじゃんって言われそうだけど、教養もまた話の引き出しという面で大事なので必要。もし俺がアリのママ生きてたらゲームと漫画とアニメの知識だけで生涯を終える気がするし、どれに至っても濃度がすごい薄くて面白さに欠けそう。そういう意味合いでも読書は大事かもね。

 …もちろんインプットのために読みたくもない作品を我慢して読んでいるワケじゃない。カラマーゾフの兄弟は多分面白い。まだ半分も読んでないから言い切れないけど。ドストエフスキー作品は罪罰だけ読んだことがあったけど、その時から人間の内面描写がすごい精緻だと思った。それこそ伝えたいであろう部分や自分達が日常でうっすらと感じ取っている内面を寸分の狂いなく言葉で表現している。星の王子様みたいなファンタジー系の作品ですごいボヤついた表現をしている箇所を徹底的に分析しているな、と。カラマーゾフでは登場人物が多いこともあり、罪と罰よりももっと人間の暗部とその相互干渉が描かれていて自分好みだ。言葉遣いが古いのとロシア文化やキリスト教文化にちなむワードを自分が知らなさすぎる故に、読む時間を吸われ過ぎてしまうが。

 

 他に見てる作品は「ポケットモンスター(アニメ)」、「fate/zero」←ちょい挫折しそう、「crosschannel」の3つ。crosschannelは買ってから1年近く封印してた作品。コレを読むと自分の思考を上回りすぎて、二度とアウトプットできなくなるのではと思って封印してた。だけど、いい加減向き合わなきゃと思って、天才田中ロミオの最高傑作に手を伸ばした。案の定面白いし語彙も思慮の深さも半端ない。人と人の関係性においてここまでピュアに考え抜き、わかりやすく表現している現代人はいないんじゃないかと思う。もしギャルゲーじゃなければ誰かに薦めたいくらいだ…いや、面倒くさいオタクに見えるしやっぱいいや。実際は鬼面倒くさい人間だから的を射てるんだけど。

 

 

 

 

 

 本題。今回は人間関係系の記事だが、俺が「どうすればいいんだよ~」って悩むために書くものではない。周りの人間を見ていて思ったことだ。多分、よくよく考えたら当たり前のことなんだけど。

 

 人間関係を構築するにあたって、好き嫌いは大前提であり最重要な要素だ。そして、好き嫌いは人によって物差しがかなり違う。ね、当たり前でしょ?

 このブログを見ていた人ならわかると思うけど、俺はココ数ヵ月間は自分の客観的に見てマイナスになりうる部分を消そうと努力してきた。デリカシーの無い人間が「雨にも負けず」みたいな人間になろうとしてきた。だが、結果は振るわず。まあ、マイナス面がゼロになったかと言われれば、このブログが残っている時点で0ではないんだけど。

 

 

 

 俺が馴染めなかった輪、そう思っている場には色んな人間がいた。性格も良くて社交性の塊のような人間もいれば、社会性はあるもののクズと言わざるを得ない部分を持ち合わせた人間もいる。絶対的に見てプラスマイナスがプラスになっている人間もいればマイナスになっている人間もいる。そしてプラスマイナス要素は個人のスペックだけでなく社会性の部分でも存在する。何が言いたいかというと、社不要素のある人間でもコミュに馴染んでるってこと。

 

 ただ、各々の中ではこれとは別に好き嫌いの計算が行われている。そして、プラスマイナスよりもっと複雑だ。例えば、共有部にゴミを放置するという絶対的なマイナスがあったとしても人によっては好き嫌いに関係なかったりする。なんなら好感度によって「あの人は忙しいからな~」なんて謎評価を付ける人間までいる。逆に、放置されたゴミを捨てたりゴミ袋の交換や部屋の換気などを率先して行っているような人でも、嫌われポイントが溜まっていれば「目障り」としか思われない。善行や悪行は好き嫌いの色眼鏡によってどんな見え方でもする。

 

 肝心の好き嫌いはもっと細かい部分で決まったりする。例えば愚痴や悪口含めて何言っても笑ってくれるとか、ノリがいいとか。相手に合わせることで仲間だよっていうアピールが大事なのかな。逆に俺の場合はこういう一歩引いて俯瞰したブログを書いてたから逆効果だったのね。俯瞰して見てみるとわかりやすいな。

 加えて「誰々と仲いい/嫌われてる」もそのまま影響する。モロ敵味方に関わることだからね。好き嫌い調整は味方が多くなる程ぬるくなるし、敵ができてくると一気に難しくなる。多数決ゲームを延々と繰り返していく感じか? もし小さな輪ができたらラッキー。

 

 

 見返してみると全然中身がないんだけど、人間関係は絶対的なプラスマイナスではなく好き嫌いだ。もっと本質に迫るとすれば敵か味方か、自分と同じか違うかで決まる。よく「性格バラバラ同士でタッグ組んじゃいました」なんてバディ物があるけど、実際は苦労するだろうな。仮にバラバラの5人とかならもう映像化不可能なくらいに荒れるに違いない。以上。ボリューム足りないけど終わり。ってゆーかこの類の記事前にも書いちゃった~。まあ、焼き直しということで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑おまけ。なんでこんなこと書こうと思ったの? それは、民度態度イマイチな人でもコミュの主要メンバーになってるのを不思議に思ったから。絶対的にマイナスに見えるけどどうして?っていう疑問を解消するために自問自答した結果この記事ができてた。…改めて思ったけど、絶対的解法ではなく相対的解法だなって。とかく人の世は難しい。むしろ、他人合わせの方が楽ちんでいいよーって人も結構いるんだろうけど。というかそうでないと社会が成立しない。

 それにしても分析してみると最適戦略がマジョリティ化って女子中学生コミュニティぽいなって。年齢は倍もあるんだから、もう少し幅が広くてもいい気がするけど。でも、本能の視点からみればこれが正しいのか。会社や部活動みたいな縛りのない環境なのであれば本能に従うに違いないし、そうなればJCになってしまうのは仕方のないことか。いざ俺がマジョリティになったときに、JCにならないとは言えないし。みんなが揶揄してるガキンチョの集まりが、本能であり本質なのかもしれない。