人が好きかどうかの話

 先日、身内でスマホを交換する機会があった。少なくとも俺には何も守る情報がスマホに入っていないからできる芸当だ。というか、普段人間を期待という側面で信頼していないからこういうときに信用の側面を見せるのだ。信頼関係を作るために敢えてオープンにするといったところか。これがどの程度機能しているかがわからない。

 

 で、スマホ交換の話に戻す。なんでも好きにいじれるとしても、お互いに画像フォルダを見ることくらいしかしない。んで、俺は交換相手のスマホの画像フォルダを見てたまげた。人間しかいないのだ。自分や他人の写真で溢れている。対して俺の画像フォルダは人間なんて自分以外誰もいない。景色や食べ物といった非生命体の写真まみれ。ここまで人によって変わるものなのか。この衝撃を受けて記事を書くに至った。

 

 おそらく人が好きかどうかだろう。俺はスマホのロック画面を他人の写真にするのは抵抗がある。携帯を開くたびに他人のことを意識させられるのは好きではない。自己中心的だからだろう。よく友達や彼氏彼女を画面にする人がいるが、よくもまあそんなことができるなと。

 他人が大好きな人間ならそれができる。人の写真もパシャパシャと撮る。まるで人間を集めた図鑑でもつくるかのように。

 

 

 しかしながら、人間が好きかどうかというのは単純にイエスノーの二択ではないと俺は思う。俺も人間の好きな一面があると同時に嫌いな一面があるからだ。人間という生き物が多面的であるが故に全部が全部好きか嫌いとは言えないということ。

 俺は総合して人間を嫌い側だと思う。画像フォルダの件からしても。しかし、好きな部分はある。各々の人間が持つ人間らしさと、そこから生み出される面白さがすきなのだ。例えば、肉体労働バイトの人が「腕が電柱になっちまう」と言ったときのワードセンスや、友達が多い人なのに絆を信じないところとか。多分最適化されていない非効率的な人間の生き方考え方が好きなのだろう。多様性と自由があって、社会の物差しを感じさせないような気楽さを与えてくれる。そんな人間性が好きだ。

 じゃあなんで嫌いなの? 人間の集合体である社会が嫌いなのだ。さっきまで十人十色だった人間達が一色になって効率を求めだす。人間達が黒一色のアリの群れになる姿を見ていられないのだ。関わっていても面白さを感じないし社会に与えられた役割を演じることしかさせてもらえない。社会不適合者から見た社会なんてアリの群れと変わらない。だから俺は人間が嫌いだ。

 

 俺みたいな面倒くさい人間は人間が好きだったり嫌いだったりする。しかし、人間を好きな人はそれなりにいる。人ってこんなにも人間の好き嫌いがはっきり分かれてるんだ。そう感じさせるエピソードだった。もし俺が社会適合者であれば人間もっと好きになったんだろうな。