絆は友達と大体同じ

 まず近況報告から。身内だけどFF(フォロワー同士)じゃない後輩から「Twitterで言ってましたよね」ってことを言われてハッとした。いい具合に友達だけ見るアカウントとして秘密の部屋感あったけど、案外色んな人に見られてるのな。正直俺のルサンチマンの煮凝りであるこのブログを載せ続けようかどうか迷った。結論としては、継続。俺の本音がどうであるかについては知った上で接する楽さの方が知ることのショックに勝るから。あとまあ、物好きしか見ないだろっていう楽観。正直このブログはクソ痛いけど、俺は自分が痛くない側に立てるような人間ではないと諦めている。すなわち痛い人間であり続ける覚悟ができているからOK。 これからも激痛走る寒いポエマーを続けていこうとおもう。twitterに書くことは少し考えるようにするか。

 

 本題。絆って本当にあるの?って話。各々のイメージによるが、実在しない。だけど、感じることはできる。概念みたいなものか。 絆あるんじゃね?って思った方が楽だったり嬉しかったりするときがあるよってだけ。

 昨年くらいまでは「頑張っている時間を共有していれば絆ができるのでは」と思っていた。絆とは、なんか超仲いいって意味。でも、今年の追いコンもとい同窓会に参加したときに気付いた。多分仲良くなるために必要なのは時間の共有ではない。

 俺は昔いたサークルで馬車馬のごとく働いていた。サークル内で俺と同じチームだった人間も同じく馬車馬であった。となると、チーム内に絆が生じるのでは?と思われるが、実際はそんなことはない。むしろ別チームの人間との方が仲良くなった。

 なぜか。仲良くなるために必要なのは時間ではなく対話だからだ。会話ではなく対話と書いたのは、本音で話さないとあまり意味がないと思えるから。同じ時間を無言で過ごしたり社交辞令だけ話しているだけではお互いの内面は分からない。内面が分からなければ「相手はこういう人間である」と推測することもないし、マッチング度合いも分からない。とりあえず話さなければ意味ないのだ。チーム内では業務会話しかせずに黙々と仕事をしていた。チーム外ではオフの会話、すなわち割と本音で話すようになっていた。これが仲良くなる度合いの差である。

 

 同じ時間を過ごして生じる、一般的な絆のイメージはない。絆を生み出すには友達を作るのと同じアプローチを踏む必要がある。

 まず話す。ひたすら話す。本音で話す。その上でマッチングしていればその先すなわち絆に踏み込める。それだけだ。合う合わないは肌で感じ取る必要があるが、それなりに数を打たなければならない。

 ただ、本音で話すようになるためには、マイナス方面の負荷をかけることが有効かもしれない。つまり、キツイ環境になるほど本音を漏らすようになるから、過酷な環境というのは自然と絆生成プロセスになりうるということ。

 

 本音で話した上でそりが合えば絆のようなものを感じるレベルまで仲良くなることができる。本音をどう引き出してどう話すかは環境と個々人次第だけど、キツイ環境の方が本能的には適してそう。