俺の誕生日は歪んでるしボッチに甘い

 元々Twitterで言おうとしていたこと。でも色々思われると面倒だからやめた。

 その内容はこう

 俺は逆張り王だから友達いない人の誕生日程張り切って祝う。

 

 だから、友達多い人の誕生日の場合は、たとえ俺自身とそこそこ仲が良かったとしても適当に祝ったりする。他の人と割り勘してプレゼント買ったり適当な物をあげたりとか。

 まあ、俺みたいな奴の交友関係の半分は「俺とも付き合ってくれている社交家」なので、さすがに言えなかったってこと。

 

 お祝いという己の絶対的な感情を、孤独度合いによって相対化しているという点で俺はクズなんだろう。俺の行動結果について言えるのはそれだけ。

 

 どちらかというと動機がきになる。どうして俺はこのような差別化を考えたのだろう。

 孤独な相手の方が自分に対してよく感謝してくれるからだろうか。つまり感謝されるという報酬系への刺激がより強い人を選ぶ、自然的な理由。これはまああるだろう。正直他のたくさんの人と同じように「ありがとう」を向けられても、コンビニで買い物終わりに店員から言われる「ありがとうございました~」と同価値にしか思えない。物を貰ったからお礼を言うだけ。反応でしかない。友達多い奴祝っても金減るだけだぜホント。

 

 より的確な理由を挙げる。自分が特別仲いいと思ってた友達は実は誰とでも…っていうよくある悲しい展開を避けている。実のところ、逆張りで諦めが早い俺は「別に俺が特別仲いい友達じゃないならもう”普通の対応”でいいや」ってよく思ったりする。野球部で3軍入りするくらいなら退部するって感じ? 愛されていないと認知するのが怖いんだろうな。誰かに特別大事に思われた経験がない人間には共感しやすいのではないか。身の回りの人間から「よく雑談する友達。いなくなったら少しショック」って程度にしか思われていない、すなわち孤独であることを確認する作業は辛い。そういう経験を重ねて俺は、自分を特別大切に思ってくれるような人しか大切に思わないようになった。愛してくれる人しか愛さないし、親友だと思ってくれる人しか親友だと思わないようになった。つまり孤独避けのために友達多い人の誕生日を適当に祝うようになったってコト。

 

 次が、友達の少ない友達の誕生日こそマジで祝う理由。誕生日ってのは特別に大事に思うためのイベントであるという俺のエゴが理由だ。ただ生まれた日を祝うのは、相手が自分にとって大切な人であるということを確認するため。何かがめでたいという訳ではなくて価値観を振り返る場なんだ。だから誕生日祝われないってマジで悲しいのよね。あとは自分で自分をどうでもよく思うようになってしまったら、生きてる意味のない人間の出来上がり。そういう誰からも愛されない人間ってのは確かにいる。俺みたいな誰からも愛されていない、与えるものだけで評価されるテレビみたいな人間はそこら中にいる。そういう事実が悲しくて目を背けるために、俺はことさらに友達の少ないボッチの誕生日をマジで祝う。

 

 要約すると、友達多い奴の誕生祝いが雑な理由は大切に思ったところでどうせ大切に思われないと思い込んでるから。友達少ないやるの誕生日をマジで祝うのは「誕生日なのに誰からも大切に思われてなくて可哀想でしょ~(俺はお前のこと好きだけどね)」っていう最低エゴがあるから。いい加減俺は人に愛されないことの抵抗を減らして、もっと素直に愛情を注いだ方がいい。

 

みんなが誕生日を親しい誰かに祝ってもらえるくらい、お互いに大事に思い合っていて欲しいよね。そうなれば孤独死とか俺みたいなキショイ奴が減ると思う。

 

 

久しぶりにこういう「以前noteで書いてたようなこと」書いたは。つかれるね。