あっくんは誰しもの中にある

 今日、友達と話していると「あっくん」という話題になった。あっくんとは誰かの名を指す固有名詞に聞こえるが、これは一般名詞だ。というのも、あっくんとはネット上で、手癖の悪い子供全般を指す言葉として使用されているから。どうやら、5chにいる人達が各々持っていた友達で育ちの悪い友達があっくんという名だったとか。

 

 僕達はあっくんを満たす膨大なチェックリストを見て驚愕し、笑ったが、後々僕はあっくんのネタを仕入れるためにもっとネットサーフィンを続けた。そして、ネット上に落ちているあらゆるあっくん経験談を総合してある結論に至った。

 

 あっくんは誰しもの心の中にある。友達の物を盗んだり虚言を吐いたりするのは人間の基本的な精神構造に基づくものだからだ。経験談を聞いている内に僕はあることに気付いた。それは、手癖の悪さと貧富は必ずしも一致しないということだ。「医者の息子がそういうことしてた」とか「ウチは普通の家庭だったんだけど…」とかはよくある。貧乏な家庭のあっくんももちろん結構な数いるんだけど。つまり、必ずしも金がある家庭のガキがあっくんにならないかと言えばそうではないというのだ。

 

 では、各家庭のこどもがあっくんに化ける条件とは何か。これは、シンプルに親のしつけだとおもう。正直人の持ち物や人気に嫉妬する感情なんてのは大なり小なり誰にでもある。それを全解放して行動に起こしたのがあっくんであり、抑制できればただの人である。抑制に必要なのは理性であり、理性とはすなわち社会のルールである。コレを教える行為はまさしくしつけだろう。

 親のしつけって案外重要なんだなって再確認した。そして、意外と人間の理性というものは意識していないだけで大きく働いている。普通じゃない人間というのはこの理性がある程度抜けている傾向があるのかもしれない。勿論合理性しか持ち合わせていないお化けも想像できるが、そもそもこの場で言う理性とは共同生活を送るために市民感情を統合して考えたいわば社会通念であり、合理性とはまた違ったものである。(例:試食の物を全部食べるのは確かに合理性こそあるが、市民感情に沿ったものではないため、理性が欠けていると言える)

 

 

 こうして考えていると、自分の生い立ちがフラッシュバックしてしまう。僕自身は人様の物を盗んだりするような代表的なことことしないが、育ちの悪さを感じさせるような子どもであった。この悪さの源流は、「マナーだけ教えて精神を教えない」ような親の教育方針である。具体的に言えば、「他人様の家に上がるときは靴をそろえなさい」というものの手土産を持って行ったり自分の家に今度連れていくといった「相手の良心に応える」という考え方を教わらなかった。

 そして、我が家は貧乏だった。今親が学費を払ってくれているあたり本当に貧困であるとは到底言えないが、子供に金銭的・精神的な貧困を感じさせるという意味合いで貧乏だったのだ。服をはじめとする基本的な私物を買ってもらえずにみすぼらしい幼少期を過ごした。そして父親(と一応義母も)の所作や言動もまた酷かった。自身の自己中心性というか無頓着さが教育や育児にも影響していたのだろう。シンプルに言えば虐待だった。虐待を受けている子供がどのような内面をしていて、どのように成長するかは多分想像しやすいだろうから敢えて書かない。

 

 僕は親から虐待を受けていたため精神的・金銭的に貧困だった。そのせいか行動に起こしていないだけで精神はあっくんそのものだったともいえる。僕自身の18年はおろか人格形成はもう取り戻せない(人格の方はリハビリを続けているが完治するとは到底思えない)が、せめてもの救いが欲しいため、いつか幸せな家庭を作りたいと改めて思った。これだけは他人にこそ言えなかったが、昔から変わらない唯一の将来の夢だ。そのための行動としてのパートナー探しは相変わらずだが。子作りの練習すらまだだ。クソが、いや、俺の自己責任だけどさ。